そこなしににねなひび

キオスクにね

ひとりごと

ていねいにいきるという弊害のこと

2017-09-11
じぶんがじぶんであることを、いけないと思ってきたきろく

ていねいに生きることが、こわかった

 

それをしてしまえば、

 

なにもかもから

めがそらせなくなる。

 

 

ていねいに生きることが、こわかった

 

わたしの愛していたひとたちは、

 

いろいろなことに、急いでいたから

 

 

わたしが、ていねいに生きることを選べば

 

 

それはつまり、自分のなかでは

 

愛するひとたちと

これ以上一緒にはすごせないということを、

いみしていた。

 

 

 

 

ていねいに生きることは、

 

なにをもごまかさず、

 

そこにあるものを味わうという

 

とてもシンプルなことだけれど

 

それは

この世界の

 

ほとんどのひとが、

 

 

できていないことだ。

 

 

 

ていねいに生きることは、

罪だった。

 

 

ひとびとは、時間に追われ、

やりたくないことに追われ、

 

ゆとりのないまいにちがあたりまえで

 

 

わたしは、

 

じぶんがていねいに生きることを選んでしまえば

 

 

彼らは

 

きっと

 

 

 

わたしのことが

疎ましくなるのだろうと。

 

 

 

 

 

この2年

 

 

変化をくりかえして

 

 

そして

 

自分が澄んでいけば澄んでいくほど

 

ひとは離れていき

 

 

いやというほど孤独を味わった。

 

 

 

 

それでも、

 

その澄んだ自分をいいといってくれるひとはいて、

 

 

わたしは孤独でも、

 

独りではなかった。

 

 

 

 

 

 

ていねいに生きることに、

ひとは憧れる。

 

 

 

でも、できないから、

ときどき

 

そんな場所から

 

目を背けたくなる。

 

 

 

 

 

ずっと、

いったりきたりしてきた道のりだった。

 

 

 

それは、

 

きっとわたしなりの

 

ひとびとへの、愛だった。

 

 

雑に生きることで得られるものがあって

何かに追われるかわりに得られるものがある

目を背けることで

得られるものが、

 

ある

 

 

 

 

 

 

わたしは十分それを理解したし、

自分にひつようのないものは、

これで十分だとおもう。

 

所詮、綺麗な水のなかでしか生きられないと以前に書いた。

 

 

わたしはずっと、そんな自分のことを、わがままだと思ってきた。

 

 

ひとはそう言ったし、「この水じゃいやだ」

と言うことは、

傲慢に見えるものだ。

 

その違いがずっと、いまになってもわからなくなるときがある。

 

だからわたしは、そのたびに、

「その汚れた水でも」「大丈夫」な自分でいることが

それが愛で、すてきなことなのだと

そうおもったのだ。

 

 

わたしはもう、ていねいにしか、生きられない。

それが今は、わかる

それ

 

ただそのまま自分が

そのままでいてよくて

わたしはそのままで、にねでいいということ。

 

 

ていねいにいきるという弊害のこと、それを欲と呼ぶか、わがままと呼ぶか、

は これから、

愛にかわる。