かぞく

山下

「山下って身長何センチ?」

「身長178センチ、体重78キロ。」

「それって、太いの?細いの?」

小さな公園でボールを器用に操りながら子守をする山下に、遠目で寝っ転がりながら尋ねた。腕は太くて、あんなに太かったっけ?と思った。

最後にその姿を見たのは、3年以上前のことだったから。

 

 

「んー、数字だけみたら、普通の俺くらいの中年だったらちょっと太り過ぎってかんじかなー」

わたしのほうを見るわけでもなく、間も無く5歳になる息子の相手をしながら、3年前の当時、彼本人がわたしと息子を連れてスポーツデポにいき、買い与えた小さなバレーの練習用のボールを投げる山下は答えた。

 

”普通のひと”、に対して山下の身体については、きちんと鍛えられて筋肉があり、メンテナンスが行き届いていることを意味していた。

わたしは特に、筋肉フェチでも鍛えられた身体フェチでもなんでもないので、どちらかというと少したるんだ中年の身体に萌えるほうだが、それにしても動く山下はやっぱり美しいなと思って、まあ、あんまりそこに興味があったかどうかは謎だが、とりあえず社交辞令てきに、久しぶりに何か会話をするためにその質問を投げたのだった。

 

その美しさは、身体のラインとか体重がどうとか、どのくらい筋肉がついているかとかそういうことではなくて、よくよく話をきいてやっと理解できたのだけど、彼の自分の身体に対する敬意や接し方が関係しているみたいだった。

つまりそれは、なんていうか、「身体の使い方を熟知している人間」の動きなのだ。

それは、しなやかで、決して粗雑でおおぶりな感じはなく、鍛えられていて確かに強さがそこには含まれているはずなのに、不思議と柔らかく細やかだった。

どちらかというとそのうごきはいつも繊細さを含んでいて、筋肉のことやスポーツのことや運動のことを何も知らないわたしからすると、何も聞いていなかったら多分、むしろ仕草や動作はとても上品で控えめな部類に入る気がする。

 

 

「ふうん、そっか」

 

公園のベンチの、屋根がついたその下で屋根の向こう側の空を眺めながら、わたしはすごく疲れたな。と思った。なにに疲れたのかはまだそのときはよくわからなかった。

ただ空白の3年間の重みを感じすぎてそうなっていたのか、久しぶりに話したことで神経を使って疲れたのか、いろんなことを考えすぎていたのは確かだった。

 

いつかその腕が、そばにいた頃に日々わたしに触れていた感覚はまったく思い出せなかった。感触は麻痺していたし、山下と別れたあとのわたしの3年間の恋愛はすこしハードコアすぎたんだと思う。

ほとんどわたしは悟りきったように、男女の恋愛の感覚とか、ただ胸をときめかす誰かへの好きを忘れてしまっていただけではなくて、そもそも山下に対して今更恋愛感情を持つとはとても思えなかった。

それはとても純粋なまでに、「終わったいつかの恋」そのものだった。

 

ただ、じっと大人の男の身体というものをまじまじと見つめて、近所のその辺を歩いている男にはあまり感じない、ある特定の自分のなかのスイッチを刺激するなにか、とても平たく言えば自分にもまだ女としての本能でもある「性欲」みたいなものがある、ことを思い出させる何かだった。

それは一番最初にわたしが彼を見たときに感じたときと同じようにまだそこに残っていて、好きとか愛しているとかこのひとを尊敬しているとか

そういうのとは別の場所にある、シンプルな自分の身体の反応。

 

「ママ、疲れたからおうちに戻ってもいい?」

すこし頭を冷やしたかったわたしは息子にではなく本当は山下にそう言った。

 

珍しく大人の男が身体をめいっぱい使って相手をしてくれる時間は、息子にとってとても貴重で楽しい時間で帰りたがらなかったので、

「じゃあママ先に帰るから、山下と遊んでから帰ってきて」

 

ちょっと遠慮がちに山下のほうをちらっとみて、3年ぶりに連絡をよこしてきた彼に、息子をひとりだけ預けるほどのわたしと彼の間の距離感が、どこにあるのかを数秒たぐりよせた。

それはどこにも見当たらなかったけど、山下が信用できない人間である理由も別に見当たらなかったわたしは、そのまま二人を公園に残して家まで帰った。

 

ぐったりとソファに沈んで、目を閉じて、ことばにならない思いをジワジワ感じていくと、そのまま涙が滲んできた。

 

疲れと混乱と、その日まで

「一体何をしに来るんだろう?」とへんな気持ちを撒き散らしてきたのが終わった安堵と、そこにいるのがなぜユウ君ではなくてリュウジなんだろう?という思いがわたしを嫌な感じで包み込んだ。

ユウ君というのは、わたしがずっと好きだった人で、家族になりたかった人だった。

 

もう、それも終わった恋で、後ろをふりかえる余地はあまり残っていなかった。消化することに自分の日々のエネルギーの大半を費やし尽くした時間は、十分すぎるくらいに自分を擦り切らして、ボロボロになり尽くしたそのあとだったから、恋しく思うとかよりは、もう何も考えたくはなかった。

 

天井がかすみ、にじむ涙の向こうで、山下とタオが外で遊んでいる姿を思った。

 

今ふたりが帰ってきたら、そのままわたしは泣いている姿を見られても大丈夫なことにホッとした。山下にそれを見られても大丈夫な距離感がそこにはあるのだ、と思い、一番最後に山下に会った日の、凍りついたような彼の冷たい表情が、いまさっき起こったばかりのフレッシュで生々しい感触とともに背後に感じた。

 

それはもう自分を痛めつけるほどの傷ではなくて、なんども癒し続けた部分だったが、目の前に本人が実際に現れるとこんなにも鮮明に思い出せる感触なのだとそっちのほうが驚いた。

 

彼の腕がどんなふうにわたしに優しく触れたのかは一ミリも思い出せない代わりに、最後に口を聞いてもらえずに、目線も合わせてもらえずに追い返されたときの冷たい空気は、今山下の中でどうなっているのだろう?とだけ頭の片隅で思い、わたしはそのまま泣きながら意識をうしなった。

 

短い空白のあとで、明るい声で「ただいま」と二重にきこえたときに、すこしだけ眠っていたことにきづいた。

 

「おかえり」と迎え入れたとき、そこはまだやわらかくて明るかった。

 

 

 

 

 

経験 表現・創る・書く

村上春樹くんのメモ

 

 

あくまで僕の個人的な意見ではありますが、小説を書くというのは、基本的にはずいぶん「鈍臭い」作業です。そこにはスマートな要素はほとんど見当たりません。一人きりで部屋にこもって「ああでもない、こうでもない」とひたすら文章をいじっています。机の前で懸命に頭をひねり、丸一日かけて、ある一行の文章的精度を少しばかり上げたからといって誰が拍手をしてくれるわけでもありません。誰が「よくやった」と肩を叩いてくれるわけでもありません。自分一人で納得し、「うんうん」と黙って肯くだけです。本になったとき、その一行の文章的精度に注目してくれる人なんて、世間にはただの一人もいないかもしれません。小説を書くというのはまさにそういう作業なのです。やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事なのです。

 

「職業としての小説家」村上春樹著 p 23より

 

 

村上春樹の本を読むと、あっと感動したり驚くことよりも、普段自分が考えていることや生きる姿勢みたいなものが、あまりに同じところが多すぎて、ますます自分は書かなければいけない人間なんじゃないか?と思って絶望する。

鈍臭く、辛気臭く、とてもスマートなしごととは言えない、という部分を読んだ時、果たしてわたしは希望を抱いたらいいのか、それとも絶望したらいいのか、全くわからなくてとりあえず一ページめくるたびに泣いている今日この頃。

わたしは多分、セラピストとして仕事をしてたりするとき、ひとはものすごく頭の切れる人間だと錯覚してるとおもう。なんでそう、騙されるんだろう?

なんでわたしは自分で自分を騙すのだ?

 

 

ひとりごと

Organic

Organicというのは、そこに命が吹き込まれているかどうか、という意味だとおもう。

くいもののはなしではなくて、ぜんぶ。

それで、「まいちゃんはオーガニックだよね」とリコちゃんに言われたときに、そのときは?と思って、一度も自分の世界観に「オーガニック」という意識を持ったことがなかったから、おどろいたものだった。

高木正勝さんとか、(しかおもいつかなかったけど)ザ・オーガニック、というひともいるから。

それはくいもののはなしではなくて、にんげんとか。

それで考えていた。

昨日のよる、自分のつまづきについてガチガチに固まったところを泣きながら感じていったときに、ふいに現れたのは、そう、オーガニック、みたいな生々しいやわらかさだった。

わたしはそれを恐れているのか、それで、わたしのなかで「オーガニック」のイメージはとても、こう、自然主義的な感じで性には合わないのだけど、わたしは文章に、それを吹き込みたいのだとわかった。

それは、命が感じられるかどうか、という感じだとおもう。

生きているときの、汚さとか、脆さとか、不安定さとか、そういうものも全部ひっくるめてこわがらずに言葉にのせていけたとしたら、多分そこには「いのち」みたいなものが乗る。

そのことを、リコちゃんはオーガニックと言ったんだ、きっと。

フルさんの洋服がすごく好きなんだけど、フルさんの世界はすごくオーガニックだが、ものすごく精密でクオリティが高くて、一見非オーガニックにみえる。創り込まれた美しさみたいなもの。

わたしのおもう、オーガニックは、雑い感じ。

手作り作家さんのぼてっとした焼き物のマグカップみたいな。

 

そうじゃなくて、とてつもなく細かい作業の入った精巧なスイスの時計みたいな、すべてが人の手で作られている、そういうオーガニックのこと。

まだうまく言えないけど、まだうまく、自分の文章のことをつかみきれずにとても苦しいけど、そういうこと。

多少暴れたり、わざと無骨さを残したりすること。

いまは、書くのがはずかしい。すごくいやだ。

かといって、書かない選択をしたら、わたしは命ごと消えるから。

 

じぶんの中から生まれてくる一語一語が、どうか有機でありますよう。