すきなもの

みほさん

憧れのピアニストの美穂さんから、憧れますといってもらえた。

SNSなんて、自分の表面のとこしか所詮みせてないとか、外向きの顔だとか、ほんとそうおもうけど

ただ、嬉しい

自分が世界にガッカリするんじゃなくてあんな風に活躍しているひとが前に居てくれることが、なによりも励みになる。

晴海さんと話した時もそう思えた。自分の使命を全うしていくこと。

まだまだなにひとつできてないと感じるけど、進む選択。

どんなことがあっても、ちゃんとのりこえてゆくこと。

みんな、すてきだよ。

それが嬉しい。

いつか美穂さんに会いに行こう。今年中に会いに行けるといいな。

エイト師匠とタオ老師のコラボがいい。公園で、楽器を聴きながら、わたしも歌う。

そんな日が来たら、祝福して泣くよ。

 

Dear

かわりつづけて、

かわりつづけて、

いつしか遠くなったあなたが

いつしかもう、ひつようないと感じるようになったあなたが

それでもなお、

側であたたかな温度を感じさせてくれること

もう2度と、消えることがないとわかった愛と

それは、いつもそばにあること

かわりつづけて、

かわりつづけて、

それでもなお

あなたがわたしを愛し続けてくれることが、嬉しい

それでもなお、

あなたのことを愛おしいと感じられることが、嬉しい

苦しいときも

辛いときも

とてもうまくいっていたときも

いつどんなときも

そこに

愛がありつづけたこと

 

そんなあなたと人生をともにできたら

どんなによかったかといつかはそう、思ったけれど

いまはただ、全てに感謝できる

 

ただ出会えたことに

ただ、いまでも穏やかで優しい愛が

ずっと

こんこんとやさしく涌き出でる愛の泉みたいに。

 

外国での暮らし

july 4thのファイヤーワークス

この身体に刻印されていく温度。
あたらしい記憶は、常時自動的にアップデートされてゆく。

私はこの地で混乱し、常にその背中を探している。
明日セカイが終わるかもしれないし、

1時間後に全てを見失うかもしれない。

だから私は今を、選ぶのだ。

嬉しくも悲しくもなくそこにあるストーリー
ぷらぷらニューヨーク観光をしてるよな気分で

夜のマンハッタンを歩く

ぐだぐだ下らない事を話しながら週末をまたぐ
背中を向けあい眠り朝を迎える

 

 

刹那の中で生きている。

july 4thのfireworksは、余計に”今”を強調させた。

ハドソン川の遠くに小さく散り行く光は、

切なさしか与えない。

 

殆ど満ちた月を望んで手を繋いだ。

 

日本の花火にあるはずの情緒というやつが、

一切感じられないその光の粒は

確かに、綺麗だった。

 

 

2009-7-8

 

 

外国での暮らし

リスのこと

マンハッタンには、たくさん、リスがいた。

リスじゃなくて、Squirrelという名前のそれは、その辺の公園にいつもいたし、なんていうか、ほんとにすぐそばにいつもいた。

2月にアメリカ人の友達が日本に来たときに、日本にはカラスがすごくいるね。と言っていて、考えたこともなかったんだけど、たしかアメリカにはカラスっていうのはあんまりいないんだとおもう。ちょっと考えたけど、やっぱり日本にカラスがすごくいるかどうか、よくわからなかった。

Squirrelはかわいいし、カラスみたいにあんまり不吉な感じじゃなくて、かといってそんなディズニーの森にでてくるみたいなファンタジーめいた可愛い感じでもなかった。

じゃあ都会風のきどった動物かっていうと、やっぱり公園でそれがうろうろしてると、とても癒されるし、とにかくSquirrelがそこにいつもいる、というのはわたしがニューヨークに住んで6番目くらいに好きだったことのひとつだ。

Squirrelという名前は、日本語にはない音だし、多分初めてそれだけ聞いたらあんまり何のことかわからないけど、マンハッタンで誰かと一緒にいつも手を繋いで散歩をしている中で、それはカラスと同じくらいに日常的に、あってもなくても生活はできるけど、でもある、からみんながよく知っているし、よく使う単語。

カラスを指差して、カラスだ!とはあんまり言わないけど、Squirrelは、見つけたら四つ葉のクローバーくらいに心が優しくなれるから、だからその単語はいつもみんなのそばにあったんだと思う。

あたりまえにそこにあるものって、そのときは、すごくあたりまえすぎて、Squirrelについていちいちその存在がどれだけ素敵かなんて誰も話すことはないけれど、なくなるとわかることはたくさんある。

外国に住むことのひとつの意味は、目の前にあるすべてはいつもあるわけじゃなんだって知ることかもしれないな。

 

 

ひとりごと 表現・創る・書く

村上春樹メモ

 

 

そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。

 

 

p37 職業としての小説家 村上春樹著 より

 

 

わたしが、言葉に確かな命を宿すことを始めたのは、とてもあとになってからだと思う。もちろんそれまでも、書いて書いて、そこにはとてもフレッシュで自分の生きてきた感触のようなものは込めてきた。

でも何度も壁にぶちあたったときに、どこか、言葉を頼りにしていて、それで自分はちょっとだけ着飾った気持ちになっていたことに気づいたのがこの数年だと思う。

そのあとはいまだにもがいていて、以前のように、言葉とじぶんがすなおにひとつになることがとても難しいし、まだ分離しがちになる。

ただ、確かに、ほんの一瞬だけれども、以前のように、自分がそのまま言葉になりかわったように魂が綴る時間がでてきた。

それを、取り戻していく。

空虚な言葉の羅列は、そして、見ればすぐにわかるようになった。

それは、そこに足りないのはひとの厚みであり、すぐに見抜けるが、そこにどうしても価値をもたせたい。

それならそれを、自分が自分なりに納得するまでやるしかないのだ。

自分がそれをやりとげることができたら、そこで初めて、わたしは上の、村上春樹氏が語るようなことを自分の言葉で語りたい。

 

 

 

 

かぞく

1 山下

「山下って身長何センチ?」

「身長178センチ、体重78キロ。」

「それって、太いの?細いの?」

小さな公園でボールを器用に操りながら子守をする山下に、遠目で寝っ転がりながら尋ねた。腕は太くて、あんなに太かったっけ?と思った。

最後にその姿を見たのは、3年以上前のことだったから。

 

 

「んー、数字だけみたら、普通の俺くらいの中年だったらちょっと太り過ぎってかんじかなー」

わたしのほうを見るわけでもなく、間も無く5歳になる息子の相手をしながら、3年前の当時、彼本人がわたしと息子を連れてスポーツデポにいき、買い与えた小さなバレーの練習用のボールを投げる山下は答えた。

 

”普通のひと”、に対して山下の身体については、きちんと鍛えられて筋肉があり、メンテナンスが行き届いていることを意味していた。

わたしは特に、筋肉フェチでも鍛えられた身体フェチでもなんでもないので、どちらかというと少したるんだ中年の身体に萌えるほうだが、それにしても動く山下はやっぱり美しいなと思って、まあ、あんまりそこに興味があったかどうかは謎だが、とりあえず社交辞令てきに、久しぶりに何か会話をするためにその質問を投げたのだった。

 

その美しさは、身体のラインとか体重がどうとか、どのくらい筋肉がついているかとかそういうことではなくて、よくよく話をきいてやっと理解できたのだけど、彼の自分の身体に対する敬意や接し方が関係しているみたいだった。

つまりそれは、なんていうか、「身体の使い方を熟知している人間」の動きなのだ。

それは、しなやかで、決して粗雑でおおぶりな感じはなく、鍛えられていて確かに強さがそこには含まれているはずなのに、不思議と柔らかく細やかだった。

どちらかというとそのうごきはいつも繊細さを含んでいて、筋肉のことやスポーツのことや運動のことを何も知らないわたしからすると、何も聞いていなかったら多分、むしろ仕草や動作はとても上品で控えめな部類に入る気がする。

 

 

「ふうん、そっか」

 

公園のベンチの、屋根がついたその下で屋根の向こう側の空を眺めながら、わたしはすごく疲れたな。と思った。なにに疲れたのかはまだそのときはよくわからなかった。

ただ空白の3年間の重みを感じすぎてそうなっていたのか、久しぶりに話したことで神経を使って疲れたのか、いろんなことを考えすぎていたのは確かだった。

 

いつかその腕が、そばにいた頃に日々わたしに触れていた感覚はまったく思い出せなかった。感触は麻痺していたし、山下と別れたあとのわたしの3年間の恋愛はすこしハードコアすぎたんだと思う。

ほとんどわたしは悟りきったように、男女の恋愛の感覚とか、ただ胸をときめかす誰かへの好きを忘れてしまっていただけではなくて、そもそも山下に対して今更恋愛感情を持つとはとても思えなかった。

それはとても純粋なまでに、「終わったいつかの恋」そのものだった。

 

ただ、じっと大人の男の身体というものをまじまじと見つめて、近所のその辺を歩いている男にはあまり感じない、ある特定の自分のなかのスイッチを刺激するなにか、とても平たく言えば自分にもまだ女としての本能でもある「性欲」みたいなものがある、ことを思い出させる何かだった。

それは一番最初にわたしが彼を見たときに感じたときと同じようにまだそこに残っていて、好きとか愛しているとかこのひとを尊敬しているとか

そういうのとは別の場所にある、シンプルな自分の身体の反応。

 

「ママ、疲れたからおうちに戻ってもいい?」

すこし頭を冷やしたかったわたしは息子にではなく本当は山下にそう言った。

 

珍しく大人の男が身体をめいっぱい使って相手をしてくれる時間は、息子にとってとても貴重で楽しい時間で帰りたがらなかったので、

「じゃあママ先に帰るから、山下と遊んでから帰ってきて」

 

ちょっと遠慮がちに山下のほうをちらっとみて、3年ぶりに連絡をよこしてきた彼に、息子をひとりだけ預けるほどのわたしと彼の間の距離感が、どこにあるのかを数秒たぐりよせた。

それはどこにも見当たらなかったけど、山下が信用できない人間である理由も別に見当たらなかったわたしは、そのまま二人を公園に残して家まで帰った。

 

ぐったりとソファに沈んで、目を閉じて、ことばにならない思いをジワジワ感じていくと、そのまま涙が滲んできた。

 

疲れと混乱と、その日まで

「一体何をしに来るんだろう?」とへんな気持ちを撒き散らしてきたのが終わった安堵と、そこにいるのがなぜユウ君ではなくてリュウジなんだろう?という思いがわたしを嫌な感じで包み込んだ。

ユウ君というのは、わたしがずっと好きだった人で、家族になりたかった人だった。

 

もう、それも終わった恋で、後ろをふりかえる余地はあまり残っていなかった。消化することに自分の日々のエネルギーの大半を費やし尽くした時間は、十分すぎるくらいに自分を擦り切らして、ボロボロになり尽くしたそのあとだったから、恋しく思うとかよりは、もう何も考えたくはなかった。

 

天井がかすみ、にじむ涙の向こうで、山下とタオが外で遊んでいる姿を思った。

 

今ふたりが帰ってきたら、そのままわたしは泣いている姿を見られても大丈夫なことにホッとした。山下にそれを見られても大丈夫な距離感がそこにはあるのだ、と思い、一番最後に山下に会った日の、凍りついたような彼の冷たい表情が、いまさっき起こったばかりのフレッシュで生々しい感触とともに背後に感じた。

 

それはもう自分を痛めつけるほどの傷ではなくて、なんども癒し続けた部分だったが、目の前に本人が実際に現れるとこんなにも鮮明に思い出せる感触なのだとそっちのほうが驚いた。

 

彼の腕がどんなふうにわたしに優しく触れたのかは一ミリも思い出せない代わりに、最後に口を聞いてもらえずに、目線も合わせてもらえずに追い返されたときの冷たい空気は、今山下の中でどうなっているのだろう?とだけ頭の片隅で思い、わたしはそのまま泣きながら意識をうしなった。

 

短い空白のあとで、明るい声で「ただいま」と二重にきこえたときに、すこしだけ眠っていたことにきづいた。

 

「おかえり」と迎え入れたとき、そこはまだやわらかくて明るかった。

 

 

ここまでnoteで公開中です。

つづきはこちらからどうぞ。